周辺一帯には雨の気配が漂っている。国土上空の大部分を占拠し続ける黒雲から降り注ぐのは、死を呼ぶ毒の雨。今、この国――ネヴェリオ連併国では、死の雨による被害を緩和させる術を日夜多角的に模索している最中だ。
煤と血に汚れた白衣姿のロウが独り佇むのは、崩落した巨大建造物の一画。つい数時間前まで、雨への対抗策を研究するための施設だった場所。ロウはその所属員のうちの一人。当時の記憶はあやふやだが、施設内で爆発が起こったものと思われる。呼吸をする度に胸部が激しく痛むのは、飛散した薬品によるものか、爆風に煽られ骨や臓器に異常が生じているためか。いずれにしても、程々に大きな傷病で間違いなさそうだ。
……研究所の爆破は、何者かが意図的に仕組んだのだろうか。思い当たる節は湯水のように湧いて出る。国の名を冠した機関を潰すことで勃発する軋轢を想定すれば些か短絡的な行動に感じられるが、それすら大した問題ではないと割り切れるだけの理由があれば。あるいは、事の実状を末々まで渡らせるだけの手段すら、今の世情には残っていないと判断したのであれば。元より、この地における考究は、従来の倫理や人道といった思想の箍を廃することこそが目的といっても過言ではない。そういった事実が黙認されてきたことを鑑みれば、もしかしたら、すでに何かがおかしかったかも知れない――などと、無理に憶測を結論へあてがったところで、きっと意味はあるまい。
言い得ぬ失意を吐き捨てるように深く息をついて、右手に持っていたカッターを後頭部まで運ぶ。先刻、周辺を探索している際に拾った、貧相な細工用のものだ。そのたった一動作だけでも、胸元に強い痛みが走り、わずかに呻いて背を丸める。舌を打ったり、不満を独りごちたりしながら、首筋を傷つけぬよう留意して、結っていた後ろ髪を、顔を覆い隠すほど長い前髪を――手早く、大雑把に刈り上げていく。自ら断髪するのは初めてではないが、外見の良さを気にするような感性は持ち合わせていない。無造作に伸びていた黒髪を極めて短く仕上げ終えると、足元の切り髪をまとめて拾い、カッターと共に近くの残火へ落とした。小さな音を立てて揺れる火先から目を逸らし、鎮座するコンクリート塊の一つと、神妙な面持ちで会話していた二人の仕事仲間それぞれに視線を移す。
「退かすぞ。手伝ってくれ」
呼びかけを受け、仲間たちが振り向く。奇抜な青い髪のラヤンは不服そうな表情を、長身で閉じ目がちのトイトは苦笑いを浮かべながら、ロウが指し示す瓦礫を囲うように集まった。
動かそうと試みている対象は比較的小さいが、頑丈さから測るに、かなりの重量であることは想像に易い。あらかじめ決めておいた分担の通り、剥き出し拉げた鉄骨に手をかける。
不機嫌な様子のラヤンは、すでに何度も確認したはずの瓦礫の下を再度一瞥。そこに見えるのは、多量の血が染みついた痕だけだ。
「……本当にこんなモノを抱えて市街入りするのか?」
「ああ。大事な研究材料だからな」
ロウは、コンクリート塊の下敷きとなっているであろうものに執着していた。建物が崩れる前に安置していた区画から推測するに、ここに在ることはほぼ間違いない。
対するラヤンが重視していたのは、安全な屋内への逸早い退避。最初に爆心地の調査を提案した際の彼女の猛抵抗は、まさに鬼気迫る勢いだった。口八丁なロウになあなあ押し切られた後もしばらく納得できず拗ねていたが、覆ることもない決答に、もはや溜息しか出ないといった様子だ。
ラヤンが担当する箇所は、瓦礫の先端。最も負荷がかかると見られる場所だが、彼女の剛力っぷりは男二人の方が様々――過去のトラブルから身をもって知り尽くしていた。過酷な作業を言い渡されたラヤンは当然一頻り文句を述べたが、ロウがわざとらしく胸の痛みを訴え、負傷の可能性をアピールすると、顔面全体をしわくちゃに歪めつつも異論を飲み込んだ。
先ほどのそんなやり取りを思い返して、さすがにラヤンにばかり不公平を強いり過ぎていると自覚し、もう少し補足の言葉を続けることにする。
「回収はするけど、別に俺が面倒を見るわけじゃない。大前提として、潜伏するだけの家すら持ってないし。最低限の設備を揃えるまでのしばらくは、のうのう逃げおおせた施設長その他少数に保護させるつもりだ」
「……どうやって」
「こいつが回復した頃合いを見て、街の中に放つ。ちょっとした画策は必要だけどな。連中もなんらかの手段で拾わずには居られないだろ」
「その逃げた連中に嫌疑をかけられてたんじゃないのか? 街中うろついてる時点でバレたらどうする」
ラヤンの質問に、すっかり短くなった黒髪を自ら一撫でして見せる。
「そのために髪切ったわけよ。カモフラージュ」
「バ――ッカ! そんなんでごまかせるわけないだろ……!」
ロウとラヤンの応酬を穏やかに笑うトイトは、黒天を仰ぎ、どこか明るげにぼやく。
「のらりくらり生き延びてきた僕も、ここに来てついに露頭に迷うことになるのかぁ。お先真っ暗だねぇ」
悲観しているのか、期待しているのか。彼には言葉と語調がちぐはぐに聞こえる話し癖があった。共に研究に励んでいた当時も変わらずこの調子で、慣れるまでのしばらくは繊細に対応すべきか迷ったが、無意識の産物であると判断してからは素直に意味だけを受け取るようにしている。
「じゃあ、俺についてくる?」
「いや〜。遠慮しておくよ。君は世渡りが下手というか、とにかく死に急いじゃうから」
「賢明堅実なご選択で」
わざわざ問わずとも結論の知れている閑談の終わる頃、いよいよ体勢を整え始めるラヤンを見、両脇を固める二人も倣うように構える。
「くそッ。職場はバラバラ、大ケガの上司はこんなときまで聞かん坊、人生最悪の一日だ――!」
ラヤンは大声で怒りを口にしながら、瓦礫を後ろ手に支え、両足に力を込めた。二呼吸ほど経て石の削れ合う音が鳴るのを皮切りに、わずかに動いた残骸を察知して握っていた鉄骨を引き寄せようと試みるが――思うようにいかない。迸る胸痛を堪えながらラヤンの隣へ移動して、見様見真似、同じ手段で押し上げる。ある程度の高さまで達した頃、ラヤンは瓦礫を肩首に乗せると、「潜れ」の一言と共に目を配せてきた。これ以上粘ることを諦めたようだ。前方二人の状況を察したトイトも増援に加わったのを確認して、ロウは急いで下へ潜り、多湿の暗がりに腕を伸ばす。数回の手探りを繰り返すうち、指先へ生温かい物体をとらえると、躊躇なく一気に引きずり出す。
それは、異様に軽かった。
コンクリート塊の下からすくい出されたのは、人間の右上半身のみ。ロウが咄嗟に握りしめたのは、血まみれの右腕だった。その先に付随しているのは右胸のみで、ほかの部位はほとんど圧潰により形を成していないか、完全に別離を果たしていた。
遺体と呼ぶにも忍びないそれを脇目にして顔を歪めたラヤンへ、ロウは慌てて声をかける。
「これだけ残ってれば十分だ、もう下ろしていい!」
指示を受けたラヤンは、トイトへ離れるよう伝えるに次いで、頭を守るように注意しながら敏捷に脱すると、瓦礫は轟音を立てて元の位置へと落ち、半ばから折れた。瓦礫を支えていた首や肩に血が滲んでいるが、心配して駆け寄るトイトを軽く制止してゆっくり立ち上がったところを見るに、擦り傷程度の怪我で済んだのだろう。
ロウの手元、大きく損傷した人体を囲うように二人が集まってきた。
青白く細長い右腕。骨ばった肩。膨らみのある胸。たったそれだけを有した肉体は、ロウの手を握り返しているかのような形を取り、皮下より露呈した筋肉や血管を鈍重に脈打たせていた。脳も心臓も目には認められないが、およそ生きている状態に値する体機能をあらわしている。
「この現象が……〝新人類〟のサンプル……」
「いくらか時間をかければ、元の姿に戻るはずだ」
声に絶望を滲ませたラヤンに、原始反射と思しき反応で絡みつく指を解きながら語りかける。
「……〝雨毒〟を止めるには、これくらいの外道は選ばざるを得ない。この血肉を、必ず、人間であると証明しないといけない」
覇気のない、ほとんど自戒でしかない言葉が漏れる。血気盛んな性分のラヤンすら神妙そうに耳を傾けているところを見るに、こちらの独白であることは薄々気づいているようだ。良くない慮りを払うように、小首を振る。
目的を果たしたせいか、あらゆる気力を削ぐほどに胸の痛みが再来してきた。体が動く今のうちに離散を告げなくてはならないと、その場で立ち居直る。
「さ。サヨナラにしよう」
白衣を捲り、黒いコートのポケットからくしゃくしゃのタバコを取り出して、適当な火を見つけて肖る。
「お前らの選ぶ道には関与しない。ただ、現状再起を賭けて別の研究所への異動を申し立てるつもりなら、俺の動向は知り得る限りを尽くして売って構わない。恩情は要らないぞ。ちょっとは要望も通りやすくなるだろ」
「ありがたく参考にさせてもらうよ。まぁ、認可されたとしても、これまで以上に監視はきつくなるかもねぇ」
トイトは、やはり大して危機感ないように返す。
「今後の多難を想像するとほんと嫌になっちゃうけど、長居してると雨に殺されちゃうからね。もし全員生き延びられたら、この生地獄の延長戦でまた会おうよ」
「楽しみだな」
簡潔に、淡白に。いくつかの連絡手段を列挙した後、まずは死の雨から逃れるための旅路に就く。ラヤンとトイトはひとまず風下側へ。ロウは宣言通り、西方の市街地へ。
風向きを確認しながら歩み出したトイトから一旦視線をロウへ戻したラヤンは、一寸の間を挟んでから強張った表情でぼそりと呟く。
「……ちゃんとケガ治せよ。タバコも止めた方がいい」
面と向かって言われると恥ずかしさすら覚える気配りに、声にはせず、手仕草で了解を伝えた。
さて、ここからは肉塊との短い羇旅の始まり。
この奇怪な生命は滅多なことでは消滅しない性質だが、命を宿す生き物であることは違わず、後に国の行く末を大きく変える〝新人類〟に成り得る存在。その未来の良し悪しを計る術は知らないが、たとえ刹那的でも、今は縋る以外の方法はない。
黒ずんだ白衣を脱ぎ、両袖を鞄紐代わりにできるよう、赤い生体を工夫して包んでいく。
「もう一働き、よろしくされてくれ」
やがて丸められたそれに呼びかけるのは、資料の書面で何度も目にしてきた、彼女の前世の名前。
「悪いな、ニレミア」
ロウとニレミア。煤と血に汚れた二人を見据え、白亜の巨塔は悠然と聳えていた。
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